観自在王院

 

観自在王院跡

観自在王院跡 観自在王院は、藤原2代・基衡の妻が建立、毛越寺の東に隣接している。
基衡の妻は、「吾妻鏡」によると安部宗任の女。(歴史の大河の項参照)

敷地は、南北約250m、東西約160m、現在は、池泉、石組、土塁を残した広々とした公園になっている。
国の特別史跡に指定。

「観自在王院跡説明掲示板」  「観自在王院平面図」

毛越寺伽藍 毛越寺の法華堂跡・常行堂跡と大泉が池の間に東大門があり、ここが毛越寺と旧観自在王院とを往来する出入り口であったと思われる。
(右図、毛越寺と観自在王院の配置参照)

現在、毛越寺伽藍の東側は生垣になっていて、東大門の通行はできない。
この生垣は毛越寺の土塁跡で、現在は生垣に沿った細い道路があるが、昔日は弁天池(右図、毛越寺伽藍上部の山すそ。詳細は毛越寺の項参照)が張り出していて通り抜けはできなかった。

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牛車屋舎跡

毛越寺の土塁から約30m離れたところに平行して観自在王院の土塁が設けられ、この両方の長い土塁に挟まれた幅30mの土地には牛車を収納する屋舎(車庫)があった。

現在は玉石・砂利が敷き詰められた南北に伸びる長方形の広い空間になっている。
この牛車屋舎(車宿)跡空間の南北の端に立って反対端を見とおすと、いっそう広大さを実感する。

吾妻鏡によると「同院氏西南北 有数十字車宿」とあり、10輌の牛車が納められる規模で、直径30cmの柱33本の柱根が全て地中に残されていた。

「車宿跡説明掲示板」

土塁跡

建立当時、この牛車屋舎跡の空間の東側に今も残っている土塁の上には塀が設けられ、池泉を中心として築かれた庭園と区分されていた。

池泉の西側(牛車の屋舎東側)は土塁だが、池泉の東南北3方にも西側と同じく土塁が設けられ観自在王院全体が土塁で囲まれていたかは不明。

土塁は築地塀に比べて外見の美しさは無いが、土を高く盛り上げるだけで工事が簡単であり、当時はよく用いられた。

この池泉の西側の土塁基部は幅3m、この上に高さが2.4mほどになる土塀が設けられていた。
東側(牛車の屋舎側)60cmに雨水溝として砂利が敷き詰められ、集められた雨水は毛越寺弁天池から引かれた遣水に繋がって池泉に導かれていた。

「土塁跡説明掲示板」

毛越寺の南大門を東へ平行移動した位置に観自在王院の南大門跡があり、現在は観自在王院公園入り口になっている。南大門から池泉に向かって参道が延びていた。
毛越寺の南大門と観自在王院の南門が並ぶ門前の道は平泉域内への入り口にあたり、昔日は、大勢の人々が賑やかに行き交う大通りであった。

「南門跡説明掲示板」  「観自在王院庭園跡説明掲示板」

観自在王院池泉
毛越寺浄土式庭園と同様に、観自在王院の池泉には中島があり、その中島には南北に橋が架かっていたと思われる。

池泉の東西の岸辺からは中島に向かって迫り出しがあり、西岸の迫り出しは荒磯、東岸の迫り出しは、現在は、石組みが残されたままだが、その遺構から普賢堂跡ではないかとされている。

池泉の向こう岸(北側)には阿弥陀堂が建てられ、阿弥陀如来の尊顔を拝するその遠方の空には中尊寺が遠望できた。

「中島跡説明掲示板」  「遣水・石組跡説明掲示板」

観自在王院池泉 池泉は南北110m、東西105m、総面積9000u。
池泉の中、南東寄りに中島があり、東西35m、南北10m、面積は300u。

西北から東南にかけて緩やかな傾斜地で、南から東に堰堤を設けて毛越寺弁天池から水を引き、池泉を築いた。
毛越寺からの遣水が土塁と交差する所は厚い4枚の木板の樋が通されていた。鑓水が池泉に注ぐ所では、滝の石組みとなっていて、大小18の石が平安時代の「作庭記」に示された「伝い落ち」を構成していた。

「池泉説明掲示板」

後世になって池泉は水田になり、その際に周囲を削り取ったために南北に狭い形になり、東部は墓地にもなった。

近年までこの池泉の周囲は田畑であったが、現在は復元され、池の周囲は芝生で覆われた広々とした空間になっている。

阿弥陀堂 北側はやや小高い台地になっていて林間から2つの遺構が発掘された。西側に大阿弥陀堂跡、一段下がった東側に小阿弥陀堂跡がある。
大阿弥陀堂は35尺(10.6m)四方で、7尺(2m)の庇か縁側を設けていた。

現在、大阿弥陀堂跡に小さな堂と拝殿が建てられていて、ここで春の藤原祭りの5月4日に「哭き祭り」(なきまつり)が行われる。
この哭き祭りは、基衡の妻の葬式を再現しているといわれる。
哭き祭りは奇祭の一種で、死者を悼んで掌の数珠をこすり合わせ、鉦や鼓を鳴らして大声で泣く儀式だが、時代を経て、農耕のための雨乞いの儀式として農民の間に伝わってきたものと思われる。

「大阿弥陀堂跡説明掲示板」

鎌倉幕府の公式記録書「吾妻鏡」(あづまかがみ)の文治5年( 1189年) 9月17日条に記録された「中尊寺寺塔已下注文」(じとういかちゅうもん、中尊寺の項参照)に、

阿弥陀堂 「観自在王院は阿弥陀堂とも号するなり 基衡の妻の建立なり」とあり、
さらに、大阿弥陀堂の内部は、
「四壁には落陽の霊地名所を図会 仏壇は銀 高欄は磨金なり」
と記されている。

落陽(らくよう)は中国の古い都で、唐時代は西の長安に対して東都と呼ばれ、白馬寺や龍門石窟などの名所旧跡が多い。

「中尊寺経蔵文書」によれば、大阿弥陀堂の本尊は阿弥三尊像で、内陣の壁には京の加茂の祭りや醍醐の桜、宇治の平等院が描かれていたという。

基衡妻の墓石
大阿弥陀堂に併設された小阿弥陀堂は基衡の妻の庵室で、障子の色紙に平安時代後期の歌人で書家の藤原教長(のりなが、1109〜?年)の書が、内部には法華経や花見道具が置かれていたという。

小阿弥陀堂の北側(池泉を背にして観自在王院敷地の右奥隅)をには基衡の妻の墓と伝承される墓石(石柱)が立っている。


藤原2代・基衡が建立の毛越寺とその妻が建立の観自在王院が並んで一体となった向こうに、奥の院的存在の中尊寺を遠望する景色は想像を絶する壮観さであったに違いない。

 

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